本日の卓話 熊本菊南ロータリークラブ 上林節郎様

上林節郎様

米山記念奨学会 米山資金推進委員会委員
熊本菊南ロータリークラブ 上林節郎 様

上林節郎様
米山梅吉の人柄について

□米山梅吉氏は日本のロータリーの創立者であります
が、どうして「ロータリー奨学会」ではなく「米山記念奨
学会」となったのか、そこには氏の人柄が、他人をして
尊敬し、感動させずにはいられない人間性があったの
です。

□梅吉氏の人柄を決定させた3つのキーワードがあ
ります。
一つは「士族の生まれ」であった事、二つ目は「幼いこ
ろ父がなくなり養子に出された」事、三つ目は「三人の
息子を若くして亡くした」事でした。
氏は生涯落ちぶれたれたとは言え侍としての誇りと潔
さがありました。

□父の名は和田竹造で次男菊松 三男が梅吉で当時
士族でありながら、松竹梅という名前を父親がつけたの
はこれからは商人の時代だという思いがあったのでは
なかと考えられます。氏は幼い頃から河童と言われて
育ち、六歳で父を無くし12歳の時土地の旧家である米
山家から養子に欲しいとの依頼があり籍は入れずに同
居、修学で二里(8㎞)を往復三時間 徒歩で通学
し、16歳で思うところあり養家に無断で沼津から三日間
歩いて東京へ出走し吏員となり援助を受けず夜学で英
学校に通う。19歳で東京英和学校に入学し、20歳で晴
れて養子として入籍する。

□そうして米山家から援助を断り単身渡米する。
目的は「日本の為、世の中のために役立ちたい」
断った理由は「援助目的の養子ではない、また勉強の
内容や期限に干渉されたくない」とのことであった。ア
メリカでは一年間働き一年間勉強し八年かかって三つ
の大学で政治学を中心に学んだ。

□28歳で帰国し新聞社に入社し「提督ぺルリ」を発刊し
勝 海舟 に本の題字を書いてもらった。
海舟から「将来必ず君は偉くなるだろうがその時には
俺はもうこの世にはいないそれを見れなくて残念だ」と
言われている。

□29歳で結婚したが給料は安いので転職を考えて海
舟の進めた大臣秘書を断り井上馨に紹介された三井
銀行に入社
それからは大出世で57歳で三井住友銀行の社長会長
となり実業界の頂点に上り詰め 大正6年アメリカの
ダラスクラブの会合にゲストとして参加しロータリー
に深く感銘を受けそれから3年後大正9年(1920年
10月20日)に東京ロータリークラブが創立された。
これは梅吉氏が日頃より考えていた「新隠居論」とお
なじ考えであることから迷わず共鳴できたものと思わ
れます。(創立メンバーは24名であった)

□しかし氏の輝かしい出世の影では長男(東一郎)を
病気で20歳で亡くし、次男(瞬二)を21歳でなくした。
また戦争が始まり日本のロータリーは昭和15年国際
ロ ータリーから離脱し解散しなければならなくなっ
た。実に梅吉が我が子のように愛情をもって育てた
ロータリ ーをわずか20歳にして無くしたのであった。
思えば実に3人の息子をなくしたのでした。
解散の辞として「創立20年を顧る時、誠に感慨無量で
あり自分の不行き届きの点をお詫びしたい」とありこ
の時の悲しみは2人の息子さん同様 いやそれ以上
のものであったと考えられます『悲しんで傷らず』鶴見
の禅師の言葉で立ち直った。

□また氏は生前数多くの青年の留学に対して私費で
行い「決して自分の名前は出してくれるな」ということ
が知れ渡っていたので、死後梅吉が行っていたことを
アジア諸国の青年を対象に行おうと昭和28年奨学資
金(「米山ファンド」が作られ昭和42年「財団法人米山
記念業学会」として文部省の認可をえて今日に至る。新
入社員に実費で名刺入れを配った。そこには赤の革製
で表に金文字で(KEEP YOUR NAME CLEAN)と書いて
あった。

□氏は昭和21年4月28日79歳で死去。
生前は貴族院議員で終戦最初の国会に病気を押して
出席し最後の公的活動となった。日頃から「ロータリー
は決して画一のものとして統一せず日本の流儀を持っ
て運営すべきである」と言っていた。その精神はキリス
ト教徒だが教会にもいかず賛美歌も歌わなかったこと
からも察せられる。墓碑には「いさかいもなく、水満々
の青田かな」願わくば亡くなる三年後の国際ロータリ
ークラブ復帰まで生きて欲しかったと残念で仕方がな

□「米山梅吉氏は「明治・大正・昭和」と日本の輝かしい
歴史の中で指導者として新年をつらぬき感激性と正義
感の強い人で、自分の事は決して語らず自慢話もせず
その生い立ちから公益、天下国家を第一に考え実行し
た誠の侍であり、ロータリアンの鏡とする人でありまし
た」

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