本日の卓話 第1240回 熊本東南RC 佐野会員卓話

sano

1.今から約30数年前に、ロータリークラブの会員になって、毎週の例
会で国歌を歌うようになり、
一体、国歌の歌詞、曲がどのようにして出来たものなのか、またどの
ようにして国歌になったのか、
良く判らなかったので、日本人の一人として、その由来、いきさつ等
を知っておくことも大事なこと
ではないかと思い、遅ればせながら、色々な文献を調べてみまして、
私なりに国歌「君が代」についての
一つの結論を得ました。

 

2「. 君が代」の由来
「君が代」の詩が始めて世に出たのは、905年、今から約1,100年以上
前の平安時代にさかのぼります。
紀貫之と紀友則等が選者となって古今和歌集が編集されました。こ
の中の「賀の部」に「わが君は、
千世にましませ、さざれ石の、いわほとなりて、苔むすまでに」という
和歌が載っており、この歌は
「詠み人知らず」になっていますが、この和歌が「君が代」の原点であ
ると言われています。

さて、この詩が何故古今和歌集に表されたかといいますと、岐阜
県の春日村に、ひとりの木地師がおり
木の椀の良材を求めて山の中を探索していたところ、古屋笹又地区
(現在の岐阜県揖斐郡揖斐川町春日
地区笹又)の谷間に、小さい石が天然自然に固まって、大きな岩とな
り苔が生えているという珍しい岩を
発見しました。 これは世にも珍しいものだと、その状態を、ありの
ままに、「わが君は、千世にましませ、
さざれ石の、いわほとなりて、苔むすまでに」と和歌に詠み、この歌を
歌人の紀貫之に送りました。
紀貫之は、都では見たこともない珍しい石のことを詠んでおり、また
、この和歌が優れた慶びの心と
高い気品に満ちているということを認めて。古今和歌集の「賀の部」
の最後のところに載せました。
本地師が詠んだ歌がなぜ「詠み人知らず」となっていたのかとい
いますと、当時、詠んだ人をはっきりと
表にだし難い場合には「詠み人知らず」としたようで、本地師は歌人
でもない一般の身分の低い人であった
ことから、作者を「詠み人知らず」としたのではないかと言われてお
ります。

なお、その後しばらくたってから、朝廷において、この和歌の素晴
らしさが認められ、この木地師に石に
ちなんで、藤原朝臣石位左衛門(ふじわらあそんいしいさえもん)と
いう名字が授けられたと言われております。
その後、100年程経った1,012年(管弘9年)に和漢朗詠集が藤原公
任によって編集され、これに「君が代」
が載っております。 この朗詠集によると、最初の「わが君は千世に
ましませ」が「君が代は千代に八千代に」
となり、また、「苔むすまでに」が「苔のむすまで」に変わってきており
ます。これは、古今和歌集から
100年が経過する間に、多くの人によって写本を重ねるうちに語句の
一部が唄いやすいように変わってきた
ものと思われます。 この和漢朗詠集の「君が世」の詩が「君が代は
千代に八千代にさざれ石の巌となりて
苔のむすまで」となり、これが現在の「君が代」の詩になったわけで
す。さて、その当時の「君」というのは
どういう意味合いであったかといいますと、「君」という言葉は、親し
い人、尊敬する人を指しており、「君が代」の和歌は、尊敬する人への
長寿を祝い祈る慶びの歌でもあり、我が国の同胞たちがお互いにそ
の長寿を祝いあうお祝いの歌であったものです。

すなわち「わが君」も「君が代」も祝賀を受ける人への敬語であって
当時においては天皇を指した言葉ではなかったものでした。その当
時、天皇のことを歌に詠む場合には
「大君(おおきみ)」あるいは、「大王(おおきみ)」でありました。「海ゆ
かば水漬く屍、大君(おおきみ)
の辺にこそ死なめ、かへり見はせじ」これは大友家持が同時代に詠
んだもので万葉集に載っておりますが、
天皇のことはこのように「大君」と詠んでおります。また、同じ平安時
代の光孝天皇(第58代天皇)が
お坊さんの遍昭僧正(へんじょうそうじょう)に贈った御製があります
が、この御製を見ますと
「かくしつつ とにも角にも ながらへて 君が八千代に 逢うよ
しもがな」とこのように天皇ご自身も
親しい僧正に「君が八千代に」と長寿を希う慣用句で呼びかけられ
ておられます。また、「君が代」の原点
とも言われる「わが君」を詠んだ木地師が、直接仕えておりましたの
は惟喬親王であったことから、木地師は
この親王のことを「わが君」と詠んだものと思われます。惟喬親王は
文徳天皇の第一王子でありましたが、
皇太子にならず、第四皇子が皇太子になっております。これは第四皇
子(惟仁親王)の生母が、当時
権勢を誇っていた藤原氏の出であったことによるものと思われます
。そのため惟喬親王は都の京都から
離れて近江の小椋(おぐら)郷に隠れ住んでおりました。 木地師が
詠んだのがその当時であることから
考えて、惟喬親王を「わが君」と詠んだものと推測されています。 な
お、この惟喬親王は手引きろくろの
考案者であったということで木地師の守り神、木工職人の神としてあ
がめられ、近江国筒井八幡宮に木地師の祖
として祭られております。このことを見ても、当時の「君」という言葉は
親しい人、尊敬する人への敬語で
あったことがうかがえます。さて、「君が代」は、もとはこのように貴族
階級が詠みあった古歌1100首の
中の一つでしたが、その後の時代においては、神事、仏事、慶事、式
典、宴席などにおいて、あらゆる階層で
盛んに使われてきております。 日本民族が「君が代」をどのように
歌いあったか、時代を追って振り返って
みますと、鎌倉時代には、源頼朝の御前で、幕府の開設を祝って、万
寿姫が祝の舞を披露しており、その時代に
「君が代」を歌いながら舞ったと言われています。また、静御前もか
の「しずかおだまき」を唄った折に、
さらに「君が代」を唄ったと言われています。 また、曽我十郎、五郎
による仇討ちの兄弟愛に感激した
朝比奈義秀(戦国時代の武将)が「君が代」を歌いあげながら鼓を打
ち鳴らした話というものも曽我物語に
載っております。 さらに平安末期から鎌倉時代には白拍子が唄い、
その後、室町時代には、能を舞う
時の謡曲や御伽草子にも使われております。ついで、江戸時代に入
ると、いろんな種類の歌に、いろんな
種類の歌に「君が代」が使われています。すなわち、歌舞伎の浄瑠璃
、常磐津、長唄、それから、
船乗りの船歌、琵琶歌、琴歌、さらには、門付唄にまで唄い込まれて
います。このように「君が代」は
町や農村の祝い事にも盛んに唄われて全国に広がっていきました。
また、九州の薩摩藩では、代々藩主の
書き初めには「君が代」と決まっていたそうで、特に幕末の頃の藩主
島津忠義は、薩摩琵琶の唄を好んでおり、
自分で作った「蓬来山」の唄の中に「君が代」が唄い込まれています。
また、江戸城における元日行事の
「お清めの式」に、大奥の女たちが、新湯で清めた手を額に当て「君
が代」を晿えながら、天下の安泰と
自分の健康を祈るしきたりがあったと言われております。このように
歴史をひもといてみますと、「君が代」
というのは、上は貴族から一般の庶民に至るまで、ありとあらゆる階
層において、めでたい行事などの時に
ごく自然にいろいろな節まわしで歌われてきたことになります。 つ
まり、「君が代」の歌詞は、
「民族の歌」と、ぴうべきものでありまして、素晴らしい文化遺産であ
るということができます。

3.国歌としての「君が代」
さて、この「君が代」がどのようにして国歌として登場したかといい
ますと、明治2年(1869年)に、
明治政府が初めて、国賓として、英国の第2王子を迎えることにしま
した。その時、横浜居住地に
駐屯していた英国陸軍軍楽隊長のフエントンが、日本の接伴係に対
して、「会見場で日本と英国の両国の国旗を揚げて、国歌を演奏する
ことになるが、日本の国旗と国歌はどのようなものが宜しいか?」と
いう相談がありました。接伴係は、何分初めてのことなので戸惑いま
して、色々協議した結果、国旗については、当時、島津藩が帆船の旗
印に使っている日の丸が、日本の国に一番ふさわしいのではないかということに
なり、国旗の方は比較的すんなりと決まりました。一方、国歌につい
ては、なかなか名案が浮かばないで
困っておりました。その時、静岡の乙骨太郎という人が、徳川幕府の
大奥において毎年、年初めに行われていた
「お清めの儀式」で歌われている「君が代」の歌が優雅で上品で、し
かもめでたい歌なのでこれがよいのでは
ないかという提案があり、一同もこれに賛成し、決まったということ
です。さて、漸く歌詞の方は決まりましたが
その曲はどうするのかとなって、曲の選定を薩摩藩の大山弥助に依
頼しました。この人は西郷隆盛の従弟で軍人
であり、のちに日清、日露戦争で活躍した大山巌元師です。彼が「君
が代」の歌詞であるならば薩摩琵琶の
「蓬来山」の中に唄い込まれているので、この曲を使うとよいであろ
うということになり、急場をしのいだと
いうことでありました。ところが、この曲を翌年の明治3年に越中島の
観兵式で吹奏したところ、どうも具合が
悪い。というのは、曲のブレス、いわゆる息継ぎと歌詞とがかみ合っ
ていないことでありました。つまり、
曲の方が「千代に八千代にさざれ」で切られているために「さざれ石
」という固有名詞が壊された上に
「君が代は永遠に砕けよ」という全く反対の意味になってしまってい
ます。そこで、その曲はこれを限り
廃止になりました。 その後、外国との交流が深まるにつれて、国歌
の必要度というものが次第に深まり、
明治13年に政府は、当時、海軍軍楽隊の教師のドイツ人のエッケル
ト、そひて我が国の陸軍軍楽隊長、宮内省
雅楽長を委員に任命して、色々研究を重ね、雅楽長の林広守が作曲
したものを国歌として決定しました。
こうして出来上がったのが、現在歌われている「君が代」の曲であり、
その年の11月3日の天長節(天皇誕生日)
の式典で演奏したところ大好評を博したということでした。そこで政
府は明治21年にこの歌詞と楽譜を条約締結
している諸外国に「大日本礼式」として送り届け、それ以来今日まで
外国ではこれを日本国歌として使用してきて
おります。

このようにして出来上がった国歌「君が代」ですが、明治中期から大
正を経て太平洋戦争の終結した
昭和20年に至るまでの約70年間においては、我が国がいくたびか
大きな戦争を体験する中で、当時の
富国強兵の国策のもとに天皇宗拝を強調する施策として、「君が代」
を天皇のご治世に限定した指導が
なされたものであります。また、戦後においては、連合軍の占領期間
中には、GHQの日本弱体化政策
の一つとして、一時期において「日の丸」とともに「君が代」の廃止が
打ち出されたことがありました。
このことから「日の丸」「君が代」は軍国主義に繋がるものであるとい
う偏見がうまれ、教育現場を
はじめ一部に拒否運動が起こり、混乱した時期がありました。 今も
なお「日の丸」「君が代」が
教育現場において一部教師が否定している実態があり、掲場、斉唱
に反対する教職員とのトラブル
から高校の校長に自殺者が出るに至りました。このことに対処し、平
成11年に国旗及び国歌に
関する法律、国旗国歌法が公布され、正式に国旗、国歌が定められ
ました。

 

4. 結論
「君が代」は1100年以上蓮綿として続いてきたもので、我々の先祖
が全国至る所で、皇室から
庶民に至るまで、互いに平和と人の長寿を祝い、かつ、祈ってきた伝
統的な「民族愛」であると
ともに歴史的に素晴らしい文化遺産であるということから、この「君
が代」が主権在民、民主主義
を基調とする現行憲法のもとにあっても全く問題なく、国民全体の
長寿を祝い・祈ると共にひいては
国の悠久を祝いかつ祈るものであろうとして立派な国歌であると確
信しております。
以上、私が現在まで色々の文献により導きだされた結論でありま
して、生を受けた我が国の国歌
として敬慮に大事にしていきたいものだと思っております。
5.諸外国の国歌との比較
外国の国歌の歌詞を見てみますと、おしなべできわめて戦闘的で
行進曲風のものが多く、
軍歌ではないかと間違うような歌が多い状況です。それに比べて「
君が代」は如何にも平和的で
優雅でしかも格調が高く、文化の香りが高いものであるということが
できます。

 

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